【小説】諸屋超子「イッツ オンリー パノプティコン」掲載
長崎在住の作家・諸屋超子(https://twitter.com/k457zAgkr7OkqrA)による〈コロナ in ストーリーズ〉の第6作「イッツ オンリー パノプティコン」(5月19日脱稿)を以下に掲載する。下記URLからPDFファイル版(四六判/縦組み/11ページ)もダウンロードできるようにしてある(既発表作品へのリンクは本ページ末に置いた)。
日本政府は昨夜(5月21日)、総理大臣官邸で対策本部を開き、緊急事態宣言について、大阪・京都・兵庫の関西2府1県を解除する一方、東京・埼玉・千葉・神奈川、それに北海道は継続することを決定した。これまでの緊急事態宣言をめぐる経過は、次のとおりである。
3月13日(金)
新型コロナウイルス特措法成立。
4月7日(火)
首相が7都府県に5月6日まで緊急事態宣言を発令。人と人の接触機会を7〜8割減らすよう要請。
4月11日(土)
首相が繁華街への外出自粛要請を全国に拡大する方針を表明。7都府県の全事業者に最低7割の出勤者減を求める。
4月16日(木)
宣言の対象地域を全都道府県に拡大。7都府県に北海道、愛知などを加えた13都道府県を「特定警戒都道府県」に。
4月22日(水)
首相が大型連休中の外出自粛を要請。ビデオ通話を使用した「オンライン帰省」を提唱。
5月4日(月)
宣言を31日まで延長。専門家会議が提言した「新しい生活様式」をめぐり、首相は今後の国民生活の指針になると強調。
5月14日(木)
39県で宣言を解除。首相は宣言を継続する8都道府県について、可能なら31日を待たずに解除すると明言。
5月21日(木)現在、日本国内の感染確認者1万7230人・死者812人。また、米国ジョンズ・ホプキンス大学の22日午前3時時点の集計によれば、世界全体の感染確認者は504万7377人、死者は32万9816人である。
米ミシガン州では19日夜、豪雨により2つのダムが決壊し、住民1万人以上が避難する事態が発生。インド東部では20日夜、近年最強級のサイクロン「アンファン(Amphan)」が上陸、同国と隣国バングラデシュでは住民数百万人が避難し、広範囲に被害が出る恐れが懸念されている。日本でも、この1週間のうちに震度4の地震が3日連続で発生した(17日・徳島県、18日・宮城県、19日宮城県・福島県・岐阜県)。
15日、東証1部上場のアパレルメーカー「レナウン」(1902年創業)が東京地裁に民事再生手続きを申請。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で倒産した企業は21日までに170社超。名古屋市のシンクタンク「中部圏社会経済研究所」は20日、新型コロナの流行が2020年度の雇用に与える影響の試算を発表し、世界的な流行の収束が今年末にずれ込む最悪のケースでは全国で最大301万5000人が失業する恐れがあると指摘した。厚生労働省は21日の参院厚労委員会で、新型コロナ関連の解雇や雇い止めが20日時点で9569人にのぼることを明らかにしている。
(編集室水平線・西浩孝/2020.5.22記)
イッツ オンリー パノプティコン
諸屋 超子
挫折というものを味わったことのない彼にとって、それは人生初の苦境だった。
鏡を覗き込むと絵に描いたようなハンサムが覗き返してくる。容姿端麗、マルチリンガル、おまけに生家はこの街で一番大きな宝飾店。彼にはその後継者の座が約束されている。現会長である叔父は彼の死んだ父親の弟で、早くに父親を亡くした可哀想な甥っ子を立派な経営者に育てようと、会社での彼の裁量権をどんどん広げてくれていた。
美しすぎる容姿は時として人を不幸にするものだが、彼の場合は当てはまらなかった。知っていたのだ、自分の美しさを。その自覚は、そのメリットを最大限に活かし、リスクを最小限に抑えることのできる最強の武器となった。
容姿にコンプレクスのある男友達と、気さくに女遊びに出掛け、特に醜くも美しくもない女と夜を過ごす。そして、その詳細(案外胸が大きくて得をしたこと、みっともない下着を鼻で笑われたこと)を語って聞かせた。そうすることで、美しくない男友達は彼を尊敬しつつ、軽んじることができた。特に羨ましくもない体験談には安心できるのだ。女と一度も付き合ったことのない男でもない限り。
彼の取り巻きは、いくら見た目が優れないとはいえ、皆、ある程度の金を持っていた。だから女性経験くらいはあるのだ。数は少なくとも。しかし、男たちはそれだけでは満足しない。自分を好きになってもらいたいのだ。財布でも預金残高でも不動産でもないこの自分自身を。もっと美しく生まれるはずだった、心優しき自分、そのままを。
男たちは、彼を馬鹿にしつつ、女に愛されるには、何か自分に欠けているコツみたいなものがあって、彼と過ごしているうちに自分もそれを摑めるような気がして離れられないのだ。実際、たまに趣味の悪い彼に袖にされた美人をモノにできるラッキーな日さえある。
彼はそうやって多くの男友達と過ごす姿を女たちに見せることは、金に名誉と美貌まである彼の近寄り難さを取り除き、親しみやすさを生むこと、結果、女を口説き易くなることを知っているのだ。それで女たちも、子ども時代に憧れた少女マンガの王子様に安心して抱かれる算段がつくのだ。
女には格段の美しさが必要だなどと彼には思えない。女はどんな女もたいていは神秘的な美しさを持っているし、それに美しさは自分が補って余りあるほど持っている。
彼もいい年になってきたので、結婚もしたし、子どもも設けた。子育てに協力的か否かで、妻に責められたことはない。妻だって大した子育てなどしていないのだ。英才教育を言い訳に、馬鹿高い幼児教室兼シッタールームへ通わせては、昼間から洒落たカフェテラスでワインを飲んだりしている。
妻ができたことにより、女がさらに寄ってきたことには彼も驚いた。あの都市伝説は真実だったのだと笑ってしまった。気を良くして2人目の子どもも1年半前に産ませた。
何もかもが彼の味方だった。宝飾店役員、魅惑のハンサム、知的な物腰、禁断の妻子持ち。
しかしどうだ。新型コロナウイルスの流行。このたった一つの出来事で何もかもが変わってしまった。
まずは、飲み会が減った。彼と取り巻きの冴えない男たちは、狩りの場を失った。仕事も遊びも一緒だったはずの彼らとの交流はパッタリと途絶えた。
続いて、結婚指輪を買いに来るカップルが減った。いや、それ以前に、下見という名の冷やかしだろうと、オモチャみたいなアクセサリーのみの購入だろうと来客自体が減ったのだ。“不要不急”という言葉が多く聞かれるようにもなった。
最初はすぐに戻ってくるだろうと高をくくっていた。どうせ人は不安になれば誰かに側にいて欲しくなる。震災婚が増えたように、コロナ婚だって増えるはずだ。それがいくら必要最低限の安心や、孤独の回避という味気ない理由からくる結婚でも、結婚は結婚だ。派手にやるはずだ。記念が欲しい。愛なんて目に見えないものより、指に光るダイヤが欲しい。プラチナが欲しい。そう思うのが人間だ。
はじめは彼の予測通りだった。数組のカップルが駆け込みで指輪を買っていった。それは、いささか簡素ではあったが、宝飾と呼んでも差し支えない範囲のものだった。しかし、1カ月も経たないうちにぱったりと客足は途絶えた。プロポーズができないのだ。接触はこのウイルスをも迎え入れる結果を招きかねない。うっかり妊娠する客も、浮かれた年の差カップルも、誰も彼も来なくなってしまった。
女たちも変わった。従業員の女たちは、彼が近寄ると嫌な顔をした。それは、接近してウイルス感染をしたくない気持ちからなのか、職場の上司である彼が、その立場を笠に着て迫ったのだと腹を立てているのか、彼には分かりかねたけれど。とにかくいつものようには喜ばれなかった。
彼には数人の継続的な関係にある女たちも居たのだが、そちらには彼の方から会いにいかなくなった。世間の人々が車のナンバープレートに注目しているとテレビや新聞がたびたび報じていたのだ。県外から感染者が県内に入り込んで来ないか見張るためらしかったが、ナンバープレートだけ見て、車本体を見ないという道理があるだろうか? 彼の車はイタリア製の高級車だ。監視体制の出来つつある街中で、同じ場所をたびたび訪れれば目立って仕方なかろう。
週替りでそれぞれの家を訪れていた習慣は一旦停止とした。女たちの中には、彼に今まで彼に見せたことのない顔を剝き出しに狂ったように責め立てるもの、それまでの冷静さのアピールを諦め泣き落としに走る者、自死を匂わせ脅す者まで現れた。彼はそういう醜いことは嫌いだったが、アフターコロナの自身の生活の充実に鑑みて、一応は堪えて謝ってみせた。狩りを再開させた暁には、そのような女は手間のかかった順に新人と交換することになり、大人しくしている女にはより一層の信頼を寄せることとなるだろうと彼は考えていた。
誰の言葉かは忘れてしまったが、コロナ禍が人間性を炙り出すとはよく言ったものだと彼は感慨深い気持ちになった。
女の中でも、一番変わったのは妻だった。子どもたちの預け先がなくなり、彼女は一日中家にいることになった。日に日に顔色が悪くなり、目も据わったようになって、薄ら寒い笑顔を浮かべていた。
「あなた……一日中ケイタイが鳴っているのね」
何度も言われ慣れてきた言葉だったが、その目で見つめられながら言われると、なぜとは分からないが恐ろしく思えた。妻がその話題に触れる時、普段努めて漂わせている何気なさが消えているからなのだが、彼はそんなことに頓着するような人間ではなかった。女というものは、やつれや疲れで美貌を失うものなのだと、ただそう思って彼は妻を見た。
彼は、そんな妻のためにと、エステサロンの予約を入れようとしたものの、なかなか引き受けてくれる店がなかった。
「当店はお客様の安全を第一に……云々……必ずまたお会いできる日を信じて……かんぬん……」
どの店も似たような返答ばかりだった。かろうじて商魂たくましい店が“おこもりケアセット”なるものを勧めてきたので、それと花を贈ったが、妻の表情はパッとはしなかった。
「里山先生が本格的に精神科を受診して、場合によっては入院して休んでみるのはどうかって」
“おこもりケアセット”に飾られている、クルクルとカールした繊細なリボンを指先で弄びながら妻は言った。里山先生とは彼の一族が代々かかってきたホームドクターで、昨年院長が引退し、彼より10歳ほど年上の息子が引き継ぎをしてくれたのだった。
「院長先生に連絡してみよう。息子先生は若くて経験も浅いから情熱が先に勝っているのかもしれないね」
彼は妻に精神科受診を勧めた内科医の怠慢を苦々しく感じつつも、平静を装って言った。
「さっちゃんは疲れているだけさ。今夜は僕が子どもたちを食事に連れ出すから、さっちゃんはこのセットでお肌のお手入れでもしてゆったり過ごすといいよ」
彼はその夜、どのレストランも閉まっていることに気が付いた。かろうじて開いていたファミリーレストランも営業時間短縮とのことで、彼は慌ただしく追い立てられるように食事する羽目になった。子どもたちはいくら急かしてもだらだらと遊びながら食べ、食べながら遊び、すぐに閉店時間となった。
スパゲッティとカレーでベトベトになった子どもたちをなかば無理矢理にチャイルドシートに押し込むと、年長の方の子どもがおまけの玩具を店に忘れたとぐずり始めた。その玩具を、彼は少なくとも五つは家の中で見かけたように思い、諦めるよう告げて駐車場を後にした。胃にさっき食べたフライ定食が重たい。いつの油を使ったものか分からないフライより、冷凍であろうパスタを選ぶべきだったか。考えながら運転している後ろで、子どもはついに大きな声を上げて泣き出した。年少の子どもの方も訳も分からずつられて泣き始める。
「わかった、わかったから。何かオモチャを買いに行こう」
そう提案すると、子どもたちはピタリと泣き止んだ。しかし肝心の玩具店が営業していない。彼は仕方なく海辺の公営駐車場へ車を停めて、タブレットで子ども向けアニメを流した。
「オモチャは?」
この子は、こんなに幼い子どもでありながら執念深い。彼は自分の粘り強さと、妻の強欲さがこの子どもの中に共存しているのだと感心した。普段の彼にとって、妻の強欲こそが、彼の体裁を守るパートナーとしての信頼の根拠であったが、彼が彼女の欲を満たせない今、つまりは金銭での解決が困難になった今、妻の強欲は彼にとって軽蔑すべき特性でしかなかった。
こうしている間も、乱心した女たちからのメールは彼の元に届き続けた。彼はその一つ一つに、責任回避をしつつも彼女たちを甘いメロドラマに留めておける言葉を選び取って返信していく。普段なら無視してヤキモキさせたのちに訪問するか、贈り物で驚かすなどしてゲーム感覚で楽しめた女たちとのやりとりも、今や賽の河原で石を積んでいるようにしか感じない。彼の優越感を刺激するスパイスだった彼女たちの嫉妬は、彼の立場と生活を危うくする危険物でしかなくなった。
車の後部座席で騒がしいアニメの音が鳴り続け、集中をかき乱されつつも、なんとか女たちへのメールをひと段落させた彼の元へ、今度は、宝飾店の支店が店子として入っている駅前のファッションビルのオーナーより、明朝、会議に参加して欲しい旨のメールが届いた。
「仕事に追われず追うようにしたい」
意味などあってないような言葉だったが、年初、ファッションビル内の広報誌に載せるためのアンケートに問われて答えた今年の抱負が、皮肉としか思えない。追い討ちに継ぐ追い討ち。彼はウンザリしてiPhoneを鞄に仕舞い発車する。
玩具を買わないまま帰宅することに後部座席で抗議し続ける子ども。この子の執念深さは異常だ。彼は心の中で毒づきつつ、目でコンビニエンスストアの看板を捉えた。コンビニエンスと謳うのだから、何かしら置いておけよとウインカーをあげた。
明朝の会議で告げられたのは、ファッションビルの全館休止で、それぞれの店子からため息がもれた。彼は最大の武器である笑顔を顔面に貼り付けてビル主へ告げる。
「お客様の安全を守れてこその我々商店主です。御英断に感謝いたします」
しかし、この後どうなるだろうか。彼は会議の帰りに車を走らせながら想いを巡らせる。先週、テーマパークが従業員の大量解雇をした時、世間は経営側に同情的だっただろうか? 否。明らかにクビを切られた者への同情が高まっていた。それはそうだろう。今クビを切られても、彼らには再就職先など見つかり得ない。ならば彼の宝飾店でも極力、解雇は避けたい。しかし休業補償はいつまで続けるべきで、何度繰り返すものなのだろうか? その支払いに見合う評価を得られる行為だろうか? ピンチはチャンスの心意気でイメージ回復を図るにも、世の中の気分は今や情緒不安定なティーンエイジャーのそれのような単純性を見せたかと思えば、突如ヒステリックに家中の装飾品を破壊し始める主婦のように不条理を極める。
彼の商売上においても、個人生活上においても、最大市場であった単純かつ善良な女たちすら、政治に関心を寄せSNSで発言を始めたのだ。彼女たちのフィールドは以前の、見栄えの良い写真のコンテスト会場とショッピングモールを出てしまったように見える。それは恐ろしいことではないだろうか? 果たして、宝飾品で身を飾り、見栄えの良い男の隣を歩くという虚構に、彼女たちの関心は戻るだろうか? 情勢不安と金の相場の相関関係について説いて宝飾品を売り、女を口説くことが可能だろうか? いや、その線でいけば、これまでのようにハナクソ並みにこぢんまりとしたダイヤが生み出す壮大な恋愛幻影など得られるわけがないではないか。
カーナビから流れていたジャズが止まり、不快な電子音が妻からの着信を知らせる。スピーカーから聞こえてくる妻のものと思われる声はひどく不明瞭で、たびたび挟まるノイズが彼女の涙と鼻水の存在を主張している。
妻が何を話しているにしろ、彼にとって不都合な内容であることは間違いなさそうだ。時折聞こえる「カウンセリング」とか「入院」とかいう気の滅入るような単語の合間に「不誠実」と「裏切り」が混ざっているのが、手に負えない状況を想像させ運転への集中を乱す。結婚などしなければよかった。結婚で得られる信用が彼にメリットを与えていたのなんて、遠い昔の出来事のようだ。
会議の途中に届いた女のメールの一つが、自死のほのめかしから、訴訟とそれが彼の体裁へ及ぼす影響について触れていたことも頭をよぎる。
世界中が彼の味方であった時間はもう戻らないのかもしれない。そう考えてみるのは不快だったが、微かな誘惑も含んでいた。彼が生まれてこのかた留学中以外に感じたことのないあの感覚がひょっこり頭を出してウインクを寄越す。
あれはなんと呼ぶのだったか。そうだ。確か自由。
彼はその幼稚、かつ甘美な響きを口に出してみる。
「自由」
妻の声が一層高くなったのを感じながら昨夜と同じコンビニエンスストアの看板が目に入り、思わずウインカーをあげた。
[2020年5月19日脱稿 © Choko MOROYA 2020]
◎〈コロナ in ストーリーズ〉既発表作品
●第1作「ソシアル ディスタンス」(4月13日脱稿)
●第2作「禍禍(まがまが)」(4月21日脱稿)
●第3作「ノー密」(4月25日脱稿)
●第4作「I’m working for Essential People.」(4月30日脱稿)
●第5作「オーバーミュート」(5月8日脱稿)
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