【小説】諸屋超子「禍禍(まがまが)」掲載


 2020年4月22日に公開した「ソシアル ディスタンス」につづき、諸屋超子の新作小説「禍禍(まがまが)」(4月21日脱稿)を以下に掲載する。前回同様、下記URLから本作のPDFファイル(四六判/縦組み/9ページ)をダウンロードできるようにした(こちらで読むことをお勧めする)。

 https://xfs.jp/EnQA1X

 「禍禍」は〈COVID-19パンデミック下における人びとの生態を描くシリーズ〉の第二作目となる。この連作を仮に「コロナ in ストーリーズ」と名づけておく。作家はすでに次作の執筆に取りかかっており、順次このサイトにおいて発表する予定である。期待されたい。

 なお、蛇足ながら、この1か月の推移をふりかえっておこう。

 われわれが暮らす長崎県では3月14日に最初の感染者が確認され、4月24日現在でPCR等検査陽性者17人、長崎市香焼町(こうやぎちょう)の三菱重工業長崎造船所香焼工場に停泊しているクルーズ船「コスタ・アトランチカ」(イタリア船籍・8万6千トン)の船内で新たに43人の感染者が確認され、乗船の陽性者は計91人になった(22日の県庁での会見において、厚生労働省クラスター対策班の鈴木基氏は、船内でクラスター〈感染者集団〉が発生したとの認識をすでに示していた)。

 日本全体では、現時点で約1万3000人の感染を確認、死者は350人超。再感染者なども存在する。3月25日までの累計感染者がおよそ1300人だったことを鑑みると、いまはその10倍に膨れ上がっていることがわかる(ここでの数字はNHKのまとめによる)。

 「禍禍」の登場人物がはたらくキャバクラなどの「遊興施設」の現状については、たとえば次のような記事が参考になる。

 ▼「震災耐えたのに…」熊本キャバクラに倒産危機、コロナ休業も「水商売NG」で融資拒否

 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200424-00011124-bengocom-soci 

 ▼新型コロナに怯える風俗嬢や飲食店が、それでも「闇営業」をし続ける理由

 https://www.jprime.jp/articles/amp/17708?display=b

 4月25日付の長崎新聞によれば、中村法道長崎県知事は24日、新型コロナ特措法に基づき県内の各施設に休業協力を要請すると発表した。休業や営業時間短縮に応じた事業者には30万円を支給する方向で検討するというが、ここで思い出しておきたいのは、中村知事が3月25日に「長崎県内における感染の拡大は考えにくい」とノーテンキにも発言していた事実である。同紙は事業者らから〈不満〉や〈あきらめ〉などの声が多く聞かれることを伝えている。

 https://this.kiji.is/626599439674655841?c=174761113988793844

(編集室水平線・西浩孝/2020.4.25記)





禍 禍

諸屋 超子


「マジで優也殺す」

 ウサギの首を締め上げて腹にパンチを打ち込んでるクマのスタンプが見つからないのに、優香がぐずり出した。私は優香を揺すってなだめながらスタンプを探す。さっきから恵梨花は電車の車内を走り回ってて、目の端にチラチラ入って邪魔なのにそのクスクス笑いはいまやキャアキャアに変わりつつある。早く見つかれ、クマ。マジ殺す。

 スタンプが見つかる前に、菜々から返信。はや。

「恵美子も悪いんじゃん? キャバくらいよくね? 優也聖人かよ」

 唇の片側を上げて笑うネコのセリフに私はマジでキレそうになる。

「ほとんど病気ですねー」

 続けて

「オクスリ出しときますね」

 と優しげに笑うなんかムカつく上から目線のネコのスタンプ。マジで死んだ。菜々も分かってくれないなんてあり得ない。

「キャバくらいって、プライベート携帯交換してんだよ?」

 私はなんか泣きそうになってLINEを返す。目の端で変な女が窓を閉めた。コロナなのにバカじゃん? 換気してんのにって思ったけどそれどころじゃない。それに窓はいっぱいあるし。

 私の脇の窓から夜風が入ってきて、左の頰が少しだけヒリヒリした。私は鏡をチェックしたけど、ヒリヒリの場所は薄ピンクにもなってなくて、マジで優也のパンチ弱えなと思った。マジガリひ弱の隠キャが、私に隠れてキャバ嬢とLINEとかふざけんなだし。


 電車に乗ると豹柄のロングスカートの女が赤ん坊を揺すりながらスマートフォンを見ていた。必死に後ろを見たがる赤ん坊のこぼれ落ちそうな大きな目。

 女の前にはピンクのキルティング生地にアヒルやクマのプリントされたパジャマにコートを羽織った3歳くらいの女の子がいた。まっすぐな髪がさらさらと揺れているのが愛らしくて、思わず見惚れる。女の子は、母親らしき豹柄スカート女の膝をスタート地点に、向かい側の窓までかけっこをする。顔に当たる夜風が気持ちいいのか快活に笑う。その小さな頭は、COVID-19感染予防のために大きく開け放たれた窓の外に見える暗闇に吸い込まれて消えそうに見える。

 何度も何度も繰り返し母の膝に駆け戻り、また窓へ駆けては母の膝へ戻る女の子。私は、立ち上がって行き、窓を下ろす。とはいえ、完全には下ろさずにほんの指二本分残して開けておいた。夜風が止まらないよう。

 女の子は頰を膨らまし、窓の安全レバーを片側ずついじっている。両方同時につままないと上げられない窓だから、彼女は不満げに母親を振り返る。母親は(その不満の表明に反応したタイミングに見えなくもなかったが、きっと実際はガチャガチャというレバー音に反応して)女の子に怒鳴る。

「えーりー! うっさいよ」

 すぐにスマートフォンに戻った豹柄スカート女の無表情と、膨らませた頰で豊かに表現された女の子の不満。私は少し戸惑って、曖昧に微笑んで目を逸らす。


 今日は、優也にムカついて一緒の部屋で寝たくないから、すぐに電車に乗った。菜々ならたぶん、泣きつけば泊めてくれるし。

「ごめん、保育園から感染予防には十分に気をつけなさいってさっきメール来たんだよね」

 あっさりと駆け込み寺役を菜々に断られて、私はめちゃくちゃに腹が立ってくる。

「子ども連れてんだよ? 3歳と0歳だよ? 泊めてくれないとか保育士なのにある?」

 私は怒りに目の中がチカチカと光るのを感じながら、LINEを打つ。

 ガチャガチャガチャガチャ。

 恵梨花が謎の雑音を立ててるから、ちょっと叱っておく。母親一人に子ども二人。マジハードすぎて無理。

「帰んなよ。私保育士だから泊めらんない。園の子どもたちに感染させらんない。それがプロだし」

 菜々からの鬼畜メールに腹が立つ。私たち、バイ菌かよ。マスクしてるし。

「ママー……、いい?」

 恵梨花が何か言ったのは聞こえた。でも分かんなかった。マジでムカつきすぎて。

「おい、ここでしよるぞ!」

 言葉がなまったおじさんの声で顔を上げたら、恵梨花が床にしゃがみ込んでいた。パンツは履いてたけど、パジャマのズボンは下げてて、マジで何がしたいの? コイツ。誰か教えて。


 神経質そうな痩せ型の中年男が乗り込んできて、私から2メートルほど離れた端の席に座る。女の子はその男にすっぽり隠れて見えなくなった。私はそれでもしばらくそちらをチラチラ見てしまう。電車の揺れは心地よく続く。赤ん坊は相変わらず目を見開いて姉の姿を探すように後ろを見たがっている。あんなに目を見開いて飛沫感染はしないだろうか。心配になる。

「ママー、うんちが出そうになった」

 女の子はトイレトレーニング中のようだ。自分の娘の紗奈はおむつハズレが早くて、だからか、私はトイレトレーニング中の子どもとその母親を見るとなんだかやましいような気分にさせられる。

 子育てで苦労してないあんたに気持ちは分かんない。

 そう責められてる気分になる。たまたまなのだ。いや、たまたまなんてないのかもしれないが、個体差があるのだ。人間は生物なのだ。優れていると思われることの恐怖。それは“いい気になっている”ように見られる恐怖で、「あんたの子とは仲良くさせるのイヤ」という無言の圧力。

 娘は学校でも成績が良くて結局行くのが嫌になってしまった。教師の嫉妬、同級生の不条理。子どもなのだ。子どもは無秩序なのだ。でも不幸にも秩序正しく生まれついてしまう者もいる。

「ママーここでしていい?」

「いいよー」

 女の淀みない返答は聞き違いだろうか? 女の子が言ったしてもいいものは、さっきの「うんち」とは別の何かか?

 ガタンゴトンと規則的な音と心地よい夜風。それに乗った微かに漂った気がするあたたかな香ばしい匂い。臭くはない。大人と違って。


 「おい、ここでしよるぞ!」

 この女は最初から好かんかった。最近の母親はなんかっていうとずーっと携帯電話ばっか見よる。挙げ句の果てに、俺の横で女の娘は糞ばしようとしとる。かがみ込んで、ここがまるで便所んごと。  俺が注意すると、女は立ちもせんで娘の名前ば呼んだ。

「椅子に座らせとかんば危なかやろが」

 俺はあんまりにも腹の立って女ば睨む。育てきらんなら二人も産むな。バカ女が。

 そしたら、横から座っとった変なシールドば頭にはめた女が立ってきて、さっきの女の娘のズボンば上げてやった。

 お前も知り合いなら注意ばせんか! 腹の立って見とったが、シールド女は何やらバカ女の娘に声ばかけて立ち去った。見たら娘は相変わらず椅子にも座らんで文句ばたれよる。シールド女は戻ってこん。なんか、どいつもコイツも子どもば甘やかしてから。

 俺はこれ以上関わるとがバカバカしくてカバンから週刊誌を取り出して目を逸らす。


 スマホが鳴ったので見ると優也からだった。

「嫁が美夜ちゃんに嫉妬して出てっちゃったよ(ここで謎の同情引きたい泣き顔)。こんな時に飲みに行けたらいいのにな(ここには謎のジョッキで乾杯マークと唇マーク)」

 マジうざい。先月店長がコロナでお客さん減ってるから同伴しろって言うから、私は頑張った。愛社精神が強いタイプなんだと思う。得意顧客だけじゃなくて、ちゃんと男友達にも人紹介してって鬼電かけまくった。

 で、普段キャバなんか行ったことない客をいっぱい呼びまくった。そいつらはマジで見たことないくらい粘着質で、この優也なんて「ナイショね」って営業携帯の番号渡したら、帰り際、ベロベロのチュウを迫ってきて、コロナ怖いから避けたら、首筋をベロベロに舐めまわしてきやがった。

 それから毎日来てくれたから、まあまあ助かりはしたけど、今は意味ない。店、休業。

「平素は格別のお引き立てを賜り誠に感謝申し上げます。我々CLUB Victoria は、この度のコロナウイルス感染拡大を受け、大切なお客様の健康と安全をお守りするため一時休業とさせて頂きます」

 残ったのはキモウザ男たちのしつこいメールと、いつあるのか分からない次の出勤日のためのお返事メール。

 普段は営業メールなんて映画見ながらでも打てるけど、最近打つのもなんかイヤになってきた。今日もヤケになってパチンコ行って負けちゃったし。もしかして私、コンビニとかでバイトすることになんのかな。

 ネイルとか外さなきゃになるし、マジテンション下がりまくり。コロナ死ね。


 女の子が神経質男に睨まれたまま、白いパンツのお尻を出して立ってる。イヤイヤする頭を、撫でたらどんなに気分がいいだろう。細くまっすぐな黒い髪が揺れる。

 私は立ち上がって、女の子のズボンを上げてやりにいく。豹柄スカートの母親は、赤ちゃんを前に抱いていて屈むのがキツイのだ。神経質男にはそれがわからないらしく相変わらず木偶の坊みたいに睨んでるだけ。

「手伝っていいですか?」

 母親に声を掛け、ズボンを上げる。

 ああ、乗り口に設置してあったビニル手袋してれば良かったな。うんちしてたらうつる? フェイスガードしといて良かった。あ。

 ズボンを上げ終えて気づいた。この子、ズボンが濡れてる。私は曖昧に微笑んで離れた。

 数分待って、私は降車ボタンを押す。次の停留所は公衆トイレに近い。たしか、除菌スプレーも置いてあったはずだけれど。


[2020年4月21日脱稿 © Choko MOROYA 2020]


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