【小説】諸屋超子「新しい生活様式には不要不急な私」掲載


 長崎在住の作家・諸屋超子(https://twitter.com/k457zAgkr7OkqrA)による〈コロナ in ストーリーズ〉の第7作「新しい生活様式には不要不急な私」(7月13日脱稿)を以下に掲載する。下記URLからPDFファイル版(四六判/縦組み/11ページ)もダウンロードできるようにしてある(既発表作品へのリンクは本ページ末に置いた)。

 https://xfs.jp/G7xQJV

 前作から間が空いたのは、来客なく私邸で過ごしていたためである。読者諸氏に対し、責任を痛感している。今後は真摯な反省の上に、編集者としてよりいっそう襟を正し全身全霊を尽くしていく所存であります

 ではまた。このあとお友達と会食の予定がありますので。


(編集室水平線・西浩孝/2020.7.31記)




新しい生活様式には不要不急な私

諸屋 超子


 ええと、何から話そう。きっとなぜ、こんな時間に、こんな場所で、見知らぬ男とぬるい缶酎ハイ飲んでるのかってことを、簡潔に話すべきなんだろうな。おまけに財布の中身は残金286円で、男はそう悪くない顔してると思うけど……どうかな。悪い顔だとしても今は認める気力がない。

 人間どんな時にも、せめてもの救いがあって欲しいと思うもので、今みたいにとんでもなくイカれた状況下ではせめて相手の男性の顔がいいと救いになるような気になってしまう。散々我慢してきた酒を飲むのに、なんでこんなクソまずい酎ハイなんだよって思ってるし、だいたい今日は生活保護の支給日から5日も経っていないのにどうしようって思う。この男の顔がどんなでもなんの救いにもならないことくらい本当は分かっているけれど、せめてこれ以上まずい状況を感じ取りたくないから、今はできる限り客観性を失っていたい。

 クリニックの担当の先生や、入院中に良くしてくれた看護師さん、それに集団療法で仲良くなったサキちゃんのことなんか考えると、眼圧が急上昇したみたいになって、目の玉が落っこちそうになる。

 ただなんとなく、あなたにだけは、話せるんじゃないかって気がした。多分この直感は当たりだよね。あなたなら分かってくれそう。細かな説明にも耐えて聴いてくれる存在って貴重だからすぐに分かるんだ。偉そうなお咎め大魔神に私が懺悔したがるとは、いくらなんでも誰も思わないだろうけれど。今みたいな時には、いわゆる寛容な天使みたいなタイプとだって打ち解けられない。そういうのって、あるじゃない?

 言っておくけれど、私は依存症の治療には、すごく真面目に取り組んできた。新型ウイルスの流行とかって騒ぎが起きても、絶望したりしないで、手洗い、うがいをきっちりして、集団療法に週2回通い、帰ったらすぐにマスクを煮沸した。混雑した電車は避けて毎週片道30分かけて自転車で通院もした。

 それなのにさ、クリニックのホワイトボードには集団療法中止のお知らせの文字。

 クラクラした。1年間必死で取り組んできた飲酒の問題。来月末の集団療法でお祝いのケーキが出るはずだったのに。

「オンラインでの開催を準備してるから、少し待ってね」

 先生に申し訳なさそうに言われちゃって、文句言えないし、我慢したよ。先生が言った通り、オンラインの集団療法は翌週始まった。私も参加してみて、なんていうか、緊張した。先着4名まではクリニックの集団療法室で参加できて、残りの3名はオンライン参加。

 私は、先着4名に入れなかった。間に合わなかったんじゃない。私なんかが申し込んでいいのか考えているうちに当日になった。サキちゃんは、実家住まいだからオンラインだと参加しにくいよねとか、休職中の澄田さんはWi-Fi持ってないからっていつも駅前のファッションビルのWi-Fiスポットで必死に好きなミュージシャンのミュージックビデオをダウンロードして帰ってるって言ってたから、オンライン療法も外で受けることになっちゃうよね。年下のリキくんは音を聴きとるのが苦手っぽいし目の前で話せる方が……。

 いろんな人の、いろんな事情を考えているうちに期を逃してオンライン参加する羽目になった。蓋を開けたら、オンラインに澄田さん(ネット環境整った恋人の家から参加)とリキくん(耳にイヤホン)。サキちゃんは休みで、集団療法室には、新しいメンバー前田さんと4年前に3年間参加していたらしい木場さん、あとは2人でいつもつるんでる万年中学生みたいな中年ゴスロリ2人組がいた。

 集団療法室にはメンバーのほかに先生とPSWの野田さんがいるらしいんだけど、そんな頼りになる2人がいたとしても、私は集団療法室には行けなかった。体が行ってないのはさっきも言ったよね。そうじゃなくて、私の欠落した想像力では、どうにも拭えない疎外と孤独の分厚く高い壁に阻まれて、バーチャルな集団療法室に入り込めなかった。

 こういう時のどうしようもないって気持ちのこと、あなたはなんて呼んでる? 私はなんて呼ぶべきか今も分からない。

 例えば、子供時代に家に帰った時に、弟が学校からすばらしい評価の通知票を持ち帰ったから今六本木クローバーのプリンを一人で食べてると聞かされた時とか。または、弟がひどい麻疹にかかって危うく命を落とすところだったとかで、自室のベッドで点滴を打たれながら枕元に最新のマンガ本とおもちゃを置いて寝てるのを見たときとか。

 そういう時の気持ちってなんて呼ぶ? あの、頰の両側が火柱みたいにボオボオ燃えて、目がまんまるに開かれてるのが鏡を見なくても分かって、でもなんでもないことみたいに鼻歌歌っていなきゃいけない時みたいなあの気持ちのこと。

 とにかく、オンライン集団療法が始まってから、私はずっとあの気持ちだった。

 普段は集団療法が終わったら、先生に話しかけて、先週見たドラマの報告とか、先生の好きそうなコンビニスイーツの最新情報とか、そういうちょっとした会話を交わしてから、トイレに行く。そこで、野田さんに教えられた儀式をやる。集団療法で聞いた持ちきれない話を目に見えない箱に詰めて、風呂敷で包んでトイレに流す。

 でもオンラインだと雑談には参加できなかったし、家のトイレに流そうとした箱は便器に詰まってしまった。

 あの気分のまま見えない箱が詰まらせた便器を見てたら、クリニックの便器にたくさんの見えない箱が詰まって汚水で溢れかえっているのが見えた。私ってすぐにこういう空想をしちゃう癖があるんだよね。それでその、およそ清潔とは言い難い風景を頭から消し去るために現実逃避が必要になってきた。

 でも来月末にはアルコールをやめて1年のお祝いが待ってるし、そのお祝いは受けたかった。出てくるのが特においしいケーキじゃないのは知ってるんだけれど、どうしてもそのお祝いを受けたかった。ボオボオ燃える両頰の火柱に生クリームを塗りたくりたい。

 もう一つ、私はこのクリーンタイムをストレートに積み重ねたかった。どうしても。

 学生時代、いつもテストにはつまずいてばかりだった。高校入試は第二志望校にしか行けなかったし、医学部受験は三度失敗して、結局は薬学部に行った。勉強は得意じゃなかった。得意なフリをするのに必死だった。

 でも就職は大手製薬会社に決まった。ついにやったと思った。けれど、3か月目から出社しようとすると動悸がするようになって、6か月目からは吐き気がするようになった。毎日飲みながら必死で出社した。そして当然、出社できなくなった。酒臭い息と数々の失敗はいくら個人主義の研究室でも噂になった。

 とにかくそういうことはあんまり詳しく話したくない。ただ治療は、この治療は上手にやってみせたい。誰にって、誰にかは分からないけれど……とにかく上手くやって、そうだな。まずは先生のお気に入りの患者になりたい。

 そういう奇妙な心持ちで私はとにかく便器の詰まってしまった不潔な部屋を後にした。

 私が気に入って、昼間からカクテルを飲みに行っていた赤いひさしのカフェバーチェーン店で、今日はコーヒーを飲んでみた。濃くて苦いそのコーヒーが、舌に張り付くと、私は世界中に拒否されたみたいな気分になって、小さなグラスの冷水を一気に飲み干した。

 トレーを下げて店を早くでなきゃって立ち上がると、イヤホンから流れるあいみょんにひどいノイズが入る。首を傾けて戻す。また傾けて戻す。この仕草を繰り返して私はウンザリした。そう、私のイヤホンはまだワイヤレスじゃないんだ。イヤホンのコードが切れかけた時の気分って最悪だよね。

 げんなりしながら目を落とすと、テーブルに貼られたシールの文字が目に入る。

「新型コロナウイルス感染予防のため、座席間の間隔を空けてお座り下さい」。そして英語でこちらの座席には座らないで下さいと続いた。日本語に添えられた他言語は、実はいつもこうして日本語と意味が乖離しているのか? 裏切られた気分だった。

 そもそも世間の人は平均的にいくつくらいの言語を使えるのか? 急にほぼ一言語しか話せない自分が、世界一の間抜けに思えてきた。

 こうして宇宙からの拒絶からの逃避に失敗した私は這々の体で店を後にした。周囲にはそうは見えなかったとは思うけれど、満身創痍だった。

 それであんなことを思い立ったのだと思う。断酒期間を遮らないための何か刺激的な気晴らしが必要だ。私は、ずるずると足を引きずるようにしながら街を見て回った。10万円は南口商店街で使おう! 閉店のご挨拶、営業再開のおしらせ、政権批判川柳集。温度差のある言葉たちがずらりと並ぶ商店街。マスクのせいで余計に相手の表情がよく見える。軽蔑、嫌悪、嘲笑、口でごまかせなくなった人々の目、目、目。

 ウンザリする。街も、人もどちらへ向かう気なのか。私は見慣れた商店街で路頭に迷う。疎外と孤独の壁の向こうに高々と挙げられ、堂々とはためく極彩色の旗。

「本日新装開店」

 言っておくけれど、私はそれまで一度もパチンコなんてしたことなかったんだよ。やり方も分からないし、なにしろうるさいのも臭いのも苦手だし。人がベタベタさわったレバーとかボタンに触る気になる人なんか軽蔑しちゃう。

 それでもなぜだか、両開きの自動ドアの前に立っていた。“パチンコ・ユートピア”。大袈裟で、温かく、そして何より魅惑的なその響き。

 ドアが開くと、中からザアアッと音がこちらへ押し寄せた。それはまるでたくさんの拍手。それも、すべて私へ向けられた称賛の拍手のようで、私は息をのんだ。私は世界一の間抜けから、女王になった。民衆の称賛、歓迎のファンファーレ。私は中へ入っていた。

 パチンコ台はゴクゴクとのどを鳴らして私のお金を飲み干した。そして何も無くなった。

 ねえ、文無しになったことってある? あの爽快感って何なんだろうね? 私は財布の金が無くなると ATMへ走って銀行に預けてあったお金を全部引き出して、さらにその台に与えた。台は喜んで飲み干していった。

 蛍の光が店内に鳴り響く頃には、私は本物の一文無しになっていた。いや、本当はポケットに286円だけ残っていた。さっきカフェでお釣りをもらった時に慌てて突っ込んだみたい。

「豪快に負けたね」

 耳のそばぎりぎりの大声で、不快に湿った空気を送ってよこしたその男に、私は驚いて目を向けた。やけにピシッとしたポロシャツに、センターの折り目を入れたスラックスを履いた40手前とおぼしき男性が笑いかけていた。星野源に似てる気がしたけれど、気のせいかもしれない。さわやか風の、星野源風のまじめ風な男。

「はあ……」

 私はその男のまだたくさんある玉を眺めた。

 私は急に年末、先生の勧めで参加した依存症フォーラムで見た女のスピーチを思い出した。内容はほとんど忘れちゃったけれど、その女は医師で、睡眠薬依存で、そしてこの春から職場復帰すると言っていた。

 女は美人で、みんなが潤んだ目で拍手と歓声を送っていた。私はあの時も、例のあの気分のまま会場を後にした。

 でも今、ニコニコと私に話しかける星野源風の男を見ていると、あの気持ちが消し去られたような気がした。ミントの香りのさわやかな消火剤が両頰に吹き付けられる。

「俺、勝ったからさ、飯でも行かない?」

 清涼感たっぷりに微笑みかけられ、私はついて行った。男の行きつけという小汚い定食屋、ガキがいっぱいのカラオケ店。

 音痴な星野源が、なんとかっていうラブソングの名前のところを私の名に変えるという拷問を受けた。私は朦朧とする意識の中でつぶやいた。

「お酒飲みたい」

 男は嬉々としてそれを受け入れた。

「行こう! 飲みに!」

 分かってる。最初から持ち金で酒を飲んでれば、好きな酒が飲めたこと。

「夜の街は危険だから、どこかに酒買って入ろう」

 なんて男の卑しい誘い文句に頷かずともよかったこと。男は下戸らしく私に好きな缶酎ハイを選ぶよう言い、自分はビックルを買っていた。

 冴えない。全体に冴えない。せっかくハメを外すなら思い切り外したいのに、私はどうしてなのかいつも冴えない。

 入院日には、アル中のクレイジーさを見せつけようと、病棟入り口にあった手指消毒用のアルコールを飲もうとして、そのあまりのまずさに全部吐き出した。一応、先生の診察があったけれど、笑われただけだった。

「一口もいけないでしょ」

 うがいなんかして、水飲んで終わり。翌日、隣室の噂好きって噂の田中さんがこう言った。 「あんたの隣のベッドの派手な風俗嬢いるでしょ? あの子は先週、シャネルの5番飲み干して胃洗浄したのよ」

 私の人生はどこまでも冴えない。格好つけて格好ついたためしがない。

 軽くなった缶から立ちのぼる甘ったるい人工的な桃の香り。飲んでも酔えない私。集団療法で話したくない今夜のこと。目の前の何もかも風でしかない胡散臭い男と、安っぽいホテル。

 もう死にたい。

「やば! 東京200人超えだって」

 男のつぶやき。湧き上がる恐怖。さっきからしきりに勧められるスナック菓子に、私が手をつけていない理由。

 それらとこの希死念慮が矛盾してると思える人は幸せ哉。

「ねえ、なんかしゃべってよ」

 男が苛立ったような、困ったような顔をする。

「……あなたはいくつの言語を話せますか?」

「三つ」

 男は呆れた顔で言ってトイレに立った。

 やっぱり私は冴えない。持っていたバッグに缶酎ハイを3本詰めて立ち上がる。

 あの時、あなたの家がもう少し近かったら良かったのにな。いや、冗談。夜中に急に押しかけてせっかくの話せる相手を失うような馬鹿なマネはしたくない。

 行くあてなんてないままだったけど、私はとりあえずくたびれたコンバースに足を突っ込んだ。 


[2020年7月13日脱稿 © Choko MOROYA 2020]




 ◎〈コロナ in ストーリーズ〉既発表作品

 ●第1作「ソシアル ディスタンス」(4月13日脱稿)

 ●第2作「禍禍(まがまが)」(4月21日脱稿)

 ●第3作「ノー密」(4月25日脱稿)

 ●第4作「I’m working for Essential People.」(4月30日脱稿)

 ●第5作「オーバーミュート」(5月8日脱稿) 

 ●第6作「イッツ オンリー パノプティコン」(5月19日脱稿)




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