【小説】諸屋超子「ファミリア ワーケーション」掲載


 長崎在住の作家・諸屋超子(https://twitter.com/k457zAgkr7OkqrA)による〈コロナ in ストーリーズ〉の第8作「ファミリア ワーケーション」(7月28日脱稿)を以下に掲載する。下記URLからPDFファイル版(四六判/縦組み/15ページ)もダウンロードできるようにしてある(既発表作品へのリンクは本ページ末に置いた)。

 https://xfs.jp/3MUwW0

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染者が日本で最初に確認されたのが今年(2020年)の1月16日。国内の死者が1000人を超えたのが7月20日。世界全体の死者は7月31日現在で66万人に及ぶ。この間、本当にさまざまなことが起き、今も起きつづけている。

 懐かしの、あの言葉。「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」(小泉純一郎首相[当時]、2004年6月2日、第159回国会衆議院決算行政監視委員会での答弁)。

 「忘れられないことを、忘れるな!」(エーリッヒ・ケストナー)。以上。


(編集室水平線・西浩孝/2020.7.31記)




ファミリア ワーケーション

諸屋 超子


「来週は河口湖に行くぞ」

 ああ、またついに出張が始まったのか。私は慌ててパパのスーツケースのあるクローゼットを振り返る。

「あんたのと子どもたちのも用意しといてね」

 パパは脱いだスーツを椅子の背にかけながら言う。ワイシャツと靴下は床に積み上げ、仕上げにポケットから取り出したハンカチとマスクをその上に載せる。

「私たちの分も?」

 訳が分からずにたずねた私に、パパはいたずらっぽく微笑みながら部屋着のTシャツから顔を出す。

「ワーケーションだよ。知らないの?」

 パパの説明によると、国が観光地に赴いて、そこでテレワークをすることを奨励しているんだって。お昼頃の会見でなんとかって大臣が話したらしいのだけれど、私はその時間、子どもたちの幼稚園のお迎えに出てて気がつかなかったんだと思う。

「あんなに立ち話してるくせに、有益な会話がなされないもんかねえ、ママ友トークは」

 洗濯洗剤を測っている私の背中に向けて、大声で嫌味を言いつつ、パパは上機嫌にビールを飲む。

「あまり難しい話をして雰囲気を壊すのもなんだから、みんな空気読んでるんじゃない?」

 本当は、コロナ感染予防で幼稚園バスの待ち時間にはあまり無駄なお喋りはしないように、みんなお迎え時間ギリギリに来てるから、前みたいに立ち話で1時間過ごすことはなくなっている。それから、もっと本当は、サトルと仲良しの音羽ちゃんのお宅はパパがレントゲン技師だから、音羽ちゃんママと前みたいに顔を寄せ合って昨夜のドラマの話なんかしないようにしている。

 彼女とはそれでも仲良しで、直前までLINEでドラマの話をしてるから、やっぱりお迎え時間ギリギリになっちゃう。

「どうせ今から会うのにね、私たち」

 音羽ちゃんママがたびたび送ってよこすメッセージ。続けて、転げながら笑う太った猫の可愛いスタンプ。私も点と線だけで表情の描かれた人間らしきキャラクターのスタンプを送る。そのおそらく人間の口元には吹き出しがあり「それな」と書いてある。両手の親指と人差し指で作ったピストルの銃口は、猫の方角。

「テレワーク7割。これは俺が率先しなきゃと思ってね」

 パパは、自分が下した電光石火の決断を得意げに語る。古い別荘を一軒丸々借りられたらしい。

「なんだか、昭和の文豪みたいね」

 文豪の名前はとっさには思い当たらないけれど、なんとなくかっこいいなと思って私は伝えた。

「はは、和服を持っていくかな。文机もいるなあ」

 パパは上機嫌で軽くなったビールの缶を振る。私は立ち上がって冷蔵庫へ向かう。

「フジさんいるの?」

 寝る前に、来週は河口湖で過ごすと伝えると、サトルは目をまん丸にして私にたずねた。

「いるの?」

 下の息子のタケルが、驚くほど大きな声を張り上げてサトルの真似をする。

「うん、でも富士山は山のお名前だよ」

 私はおかしくてクスクス笑ってしまうが、サトルは不満げな表情でこちらを見てる。

「でもいるんだろっ! フジさん!」

 ママのババア! サトルが私の肩を拳で強くぶつ。

「イタタ、コラァ!」

 私は笑いながらサトルを抱きしめる。

「ぼくもーーー! ぼくもーーー!」

 驚くような大声で叫ぶタケルも抱きとめると三人で大笑いした。サトルはもともと優しくて大人しい子だったけれど、3か月前から好きだったプリキュアを卒業させて、仮面ライダーを見せるようにした。最近は遊ぶお友達が男の子に変わって、少し乱暴になったかもしれない。でも、男の子は、これくらいが普通だろう。

 翌朝は、からりと晴れた。私は鼻歌まじりにネットで食材を使い切るためのレシピを検索する。そのまま惰性でネットサーフィンをしていると、九州地方の洪水被害の寄付を募るバーが出てきたので、4000円送金した。私たち家族一人につき1000円。自分たちだけ楽しんでしまっているんじゃないかって、あのいわれなき罪悪感に来週の休暇を邪魔されないために、人数分きっちり4000円。

 これで準備は万端だ。

 今、時代はウィズコロナになっている。そう言ったパパがテレワークから、満員電車に戻ると知った時、私は本当は悲しかった。都内に住んでいれば自転車通勤だって可能だったのにと、郊外に家を買ったことを後悔していた。

 でも、今度のキャンペーンでは都民は対象外になるらしいから、やっぱり私たち夫婦の、いや、うちのパパの選択は間違いじゃなかったんだ。賢いパパと結婚してよかった。保育園の抽選に落ちて、仕事を辞めることになった時の悔し涙も、このためにあったのだと思える。

 サトルもタケルも可愛いし、毎日保育園に立ち寄って出社して満員電車に揺られるなんて感心しない。すべては、幸せのためにあったのだと思う。

 あっという間に午後になって、お迎えに向かう。後ろから背中を叩かれ振り返ると、ヒナタくんのママで、こちらへスマートフォンを突き出して、反対の手で指差している。私は慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。

「音羽ちゃん、今日早退したらしいよ。ゲボだって」

 LINEにヒナタくんママからのメッセージ。私は目を丸くして見せる。そして、すばやく泣いてるウサギのスタンプを送る。自分の涙に沈んでしまいそうに大泣きしているウサギ。ヒナタくんママはうなずいて、大きな目を潤ませた、醜いクマのスタンプを送り返してきた。

 私は、朝の映像を頭の中で巻き戻して再生してみようと試みる。サトルの隣は誰が座っていた? バスの窓はちゃんと開いていた? 音羽ちゃんはサトルより前にいた? 後ろにいた? 空にはいつの間にか厚い灰色の雲が垂れ込めている。

「あ! 降ってきた!」

 誰かの声を合図にしたように、サトルとタケルを乗せたバスが角から姿を現す。私は2階の小窓を開けっぱなしにしてきたことを思い出して気が気じゃない。

 その夜は変な夢を見た。降り込んだ雨が、音羽ちゃんママに勧められて読んでいた育児書の表紙を濡らして、拭き取ったけれどカバーが反り返ってしまった。それを直そうと枕の下に本を敷いて寝たせいかもしれない。

 夢の中で、私はジャングルジムにのぼるサトルとタケルを見守っている。そこは、入園前に音羽ちゃん親子とよく行った児童公園によく似ていた。

 音羽ちゃんが、ふっと私の隣に現れて、声を張り上げた。

「おすなばあそびしよう!」

 サトルは猿のようにするするとジャングルジムを降りて音羽ちゃんに駆け寄る。タケルも焦った顔で危なっかしくサトルの後を追う。

「何を作るの?」

 タケルが落ちないよう手を貸しながら、私はたずねる。世にも優しい、マリア様のような声が出た。その美しさに、私は自分でうっとりとする。

「みずうみをつくるよ」

 音羽ちゃんが鈴を転がすような声で答え、私は女の子って可愛いなあとしみじみ思う。

「じゃあぼくはフジさんをつくるね!」

 サトルが張り切って砂場にしゃがみ込む。

「つくるね!」

 タケルも声を張り上げて砂場に突進する。

 音羽ちゃんが堀り、サトルが積み上げる。2人の完璧なコンビネーションの周りを、ウロウロと気まぐれにタケルが手伝って回る。ひょっとしたら、邪魔しているのかも? とにかく可愛らしい姿! 平和そのもの。私は幸せに満ち満ちて3人を眺める。

「サトルくんママー!」

 道の向こうから、自転車に乗った音羽ちゃんママが手を振りながらやってくる。

「音羽ちゃんママー!」

 私も大きく手を振り返す。子どもたちのみずうみとフジさんは完成間近。

「音羽ぁ! 今日はもう帰りましょう!」

 道の向こうから音羽ちゃんママが叫ぶ。

「もう少し!」

 音羽ちゃんは顔を上げない。うちの2人も夢中で砂を積んでいる。

 ふっと音羽ちゃんは立ち上がって赤いバケツを持って立ち去った。いよいよ完成か? 私が笑顔で音羽ちゃんの方を見ると、音羽ちゃんがキラキラと輝く何かをバケツの中に吐き出していた。サラサラと音も立てず、音羽ちゃんの胸から吐き出される何か。あまりにキレイで、私も音羽ちゃんママも黙って見惚れていた。

「さあ、いよいよカンセイです!」

 音羽ちゃんは頰を紅潮させて、バケツを砂場へ運び込む。私は、何か大切なことを思い出さなきゃいけない気がするのだけれど、思い出せずに、ただ、可愛い子どもたちを眺めている。私の息子たち2人は砂場に腹ばいになる。肘をついて期待に目を輝かせ、湖になる予定の深い穴を覗き込んでいる。

「ジャンジャカジャーン」

 赤いバケツが傾いた瞬間、「あっ」と私は小さく叫んだ。だめ……それは……だめ!

 汗だくで目覚めると、隣でパパが呑気にいびきをかいていた。時計はまだ5時前。でも、もう眠れそうもない。

 出発の日は、からりと快晴というわけにはいかなかったけれど、なんとか降られずに済んだ。灰色の雲も、今日は私を憂鬱に引っ張ったりできないはず。

 高速に乗ってから、子どもたちははしゃぎっぱなしだ。ポテトチップスの袋がパンパンに膨らんだとか、大きなトラックとすれ違ったとか。騒いでいるうちに疲れたのか眠ってしまった。

 パパは、サービスエリアごとにタバコ休憩をとっている。少しイライラしているのかもしれない。子どもの声を聞きながら、運転に集中するのは大変だろう。普段ほとんど運転しないとなればますますのこと。

「コーヒー淹れてきたわよ」

 私は水筒を取り出すとフタを兼ねたコップに注ぐ。

「ああ、いい香り」

 パパは嬉しそうに言ったが、一口飲んだきり、もう飲まなかった。私は次のサービスエリアでパパが喫煙所に行った間に、助手席のドアを少し開けて、それを地面に流した。

「よし、あと少しだぞぉ」

 戻ったパパは、伸びをしながらおどけたように言う。フワッと甘いコーヒーの香りが鼻先をかすめる。スムーズな発進、微かに右側に引っ張られる身体、サイドミラーにチラリと映ったニヤついた緑の人魚。

「高速降りたら大きなスーパーが見えるから、そこで1週間分の食材を買おうな」

 私は不意をつかれた思いだった。そうか。ホテルと違って食事は出ないのだ。

「家族水いらずで、仕事もできる。子どもたちは自然の中で過ごせるし、最高だよなあ」

 子どもたちは後部座席で汗をかきながら眠っている。私も少し眠りたい。車を降りるたび駆け出そうとする2人の手をしっかり握ってトイレに行くのは結構な重労働だった。しかもトイレに居ながら自分は用を済ませることはできない。

「次の休憩で、パパがタバコ吸い終わったら、私もトイレに行きたいから、少し待っててくれる?」

 パパは驚いた顔でこっちを見た。

「トイレ近いんだな。妊娠したんじゃない?」

「違うわよ。この子たち、トイレで大人しく待ってられないから」

 パパは顔を前に戻してクスクス笑う。

「はいはい。昔からお前はどんくさいもんなぁ」

 悪戯っぽい目でちらちらとこちらを窺ってくる。少し吐き気もするから外の空気でも吸ってこなきゃ。

「あ、ちょっと我慢できない? 我慢できるなら、スーパーでトイレ済ませろよ。時間もったいないし」

 私は考えてみる。我慢について。

「どうせスーパーに行くときは俺がこいつらと車で待つしかないじゃん?」

 私は我慢が得意だろうか? まだできるだろうか? この我慢をいつからしているだろうか?

 別荘の夜は静かだった。静寂と暗闇。幼い息子たちの苦手なそれらが寝室を包み込み、長い長い昼寝を経た幼児2人は、少しも寝ようとしなかった。

 私は、子守唄を歌ったり、体をさすったりしながら睡魔と戦う。午前2時。ノックの音。

「おい、明日、早朝会議なんだけど」 

「ごめんなさい、耳栓が確か私のポーチに……」 

「わかんない。持ってきて」

 耳栓を手渡して戻ると、静寂と暗闇の部屋は、煌々と照らし出された床いっぱいのレゴブロックと、口の周りをチョコレートでベトベトにした男の子たちの跳ね回る遊戯場と化していた。

 パパの会社の早朝会議では、いつもコーヒーとドーナツが用意されるらしい。なぜ私がそれを知っているか? 私を叩き起こしたパパが、コーヒーを淹れる私の後ろで無邪気に語っていたのだ。砂糖でコーティングされたドーナツ、生クリームをはさみこんだドーナツ、パリッと揚げてシナモンシュガーを振りかけたドーナツ……近くにドーナツショップがなくて助かった。

 河口湖を横目に湖畔を走る。タケルを抱いたまま、サトルを見失わないよう。芝生が見えてきた。あそこで1時間寝られたらどんなに気持ちがいいだろう。

「天気も良いし、出かけておいでよ」

 パパが言い、私は薄曇りの空を見上げる。そうね、ここはずいぶん涼しいし。私は心の中で自分に言う。湖までの道すがら、公園を見た。雑草が生い茂り、一歩でも足を踏み入れると50箇所くらい蚊に食われそうな公園。息子たちも、ちらりとそちらを見たが、そのまま通り過ぎた。誰にも見向きもされない公園。

「フジさんには、いつ、あいにいく?」

 大きな富士を背に、やっと立ち止まったサトルが無邪気に聞く。

「いついく?」

 タケルも大声を張り上げる。岸辺で出合った野生のペリカンに怯えて流した涙の跡が丸い頰にうっすら残っている。

「フジさん、パパとおともだち?」

「おともだち?」

 息子たちは返事の遅い私に苛立ったように重ねてたずねる。なんて可愛いんだろう。

「プリキュアともお友達だと思うよ」

 私はポケットからハンカチを出して、タケルの頰を拭う。タケルがイヤイヤして私の手を逃れる。私は容赦なくつかまえてキレイに拭く。

「プリキュアとともだちなんて……まさかフジさんはおんなか!?」

「おんなか!?」

 サトルが憤慨して聞くので、タケルも腕組みをしてこちらを見ている。

「さあ、でも……」

 私は2人の小さな肩を優しく押して、振り返らせる。

「変わったりしないし、逃げたりしないお友達だよ。男とか女とか言ってこないお友達」

 スマートフォンにはヒナタくんママからとパパから、2件の通知があったのだけれど、私はしばらく富士山と湖を眺めて過ごした。

「音羽ちゃん、ただの風邪ですって。でも2週間はお休みしますって。よかったね」。どこにかかるのか不明瞭なよかったねを、目を潤ませた醜悪なクマが、祈るように手を組んで繰り返すスタンプ。

「あと1時間で昼休みになるから、帰ってきて。腹減った」


[2020年7月28日脱稿 © Choko MOROYA 2020]




 ◎〈コロナ in ストーリーズ〉既発表作品

 ●第1作「ソシアル ディスタンス」(4月13日脱稿)

 ●第2作「禍禍(まがまが)」(4月21日脱稿)

 ●第3作「ノー密」(4月25日脱稿)

 ●第4作「I’m working for Essential People.」(4月30日脱稿)

 ●第5作「オーバーミュート」(5月8日脱稿)

 ●第6作「イッツ オンリー パノプティコン」(5月19日脱稿)  

 ●第7作「新しい生活様式には不要不急な私」(7月13日脱稿)


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